震災から10年。
これは仕事のブログで書く事ではないかも知れない。
でも、人によっては何か得るもの、ヒントになる事があるかも知れない。
少し前までは書く事に抵抗があったけれど、10年目の今、思い出しながらではありますが私の体験を記録しておこうと思います。
2011年3月11日。
あの日、私は仙台市内の不動産屋で勤務中でした。
激しい揺れの中、社内にいた者は皆、外にかけ出てガードレールにすがりつきました。
停電になったが、数時間で復旧すると思っていました。
しかし揺れが納まると、社長が『これは大変な地震だ。今すぐ水と食料と乾電池、懐中電灯を買ってくるように』と私にお金をバッと渡しました。
宮城の大人たちはそれまでにもよく、1978年の宮城県沖地震の話をしていました。まだ生まれていなかった私たちにはピンと来ていませんでしたが、きっと社長はその体験からこの地震の大きさを感じていたのだろうと思います。
私は一人自転車で、小雪の舞う中それらを調達し、自転車のカゴと両脇、両腕に大きな袋を抱えて帰社しました。雪の中、自転車を引きながら、(重い、寒い)と思ったのを覚えています。
他の社員たちは火災やケガ人などないか、建物の状況はどうか、数百の管理物件と数千の入居者を車や自転車で見回ることになりました。パソコンが使えないとどうにも不便でしたが、社長の的確な指示によって、皆自分の家に戻ることもせず、目の前のやるべきことを黙々とやりました。
日が暮れると社内も真っ暗で何もできません。
暗くて足元が見えず危ないので、自転車を押しながら帰ります。
帰宅してみると私の住んでいた部屋は、玄関ドアのフレームが曲がり、バールでこじ開けなければ中に入れない状態になっていました。中を片付けようにも余震が続き、建物が崩れるのではないか、もっと曲がって中から出られなくなるのではないかと頭をよぎり怖くて長い時間はいられません。
角部屋で窓が多かったのですが、窓枠も曲がり、鍵をかけていたはずの窓が全部開いた状態で閉めることが出来なくなっていました。新婚生活で用意したばかりの家財が雪・風ざらし。悲しかったです。
帰宅しても真っ暗で寒く、片付けが全く進まないので、あきらめて近くの私の実家に、夫と身を寄せました。(幸い実家はそこまで大きな損傷はありませんでした。こういう時、木造の方が強いようです。)
私の父は仕事でちょうど渡米中。
母は透析患者で、週3回4時間という透析の中でも一番重い部類でした。
あの日、夕方から透析予定だった母は透析を受けられないでいました。
父から何度も国際電話がかかって来ます。
・父の商売道具を避難させること。(それらは家から車で30~40分の場所にあり、帰宅後、真っ暗な道を車で5往復以上しました。)
・母の透析をしてもらえるところを探すこと。(そのうち病院も復旧するだろうと思っていたが、実際は地域全域、透析が出来ないでいました。)
私の上の妹は3歳と0歳を抱えて育休中。
下の妹は大学生で、仙台港のアウトレットでアルバイトをしていましたが、その日はシフトに入っておらず難を逃れました。もしいたら津波に巻き込まれていたか、屋上で一晩過ごす羽目になっていたでしょう。
何が言いたいかというと、まともに動ける(母を助けられる)のは私しかいなかったのです。
にもかかわらず私は、翌12日も13日も、普段どおり会社へ行き、物件と入居者の見回りをしました。自分より大変な目にあっている人たちを助けなきゃという使命感もあったし、私は避難所に行かないだけ恵まれている。自分だけ休むなんて言えない。と思いました。
途中、何度も父に電話で怒られました。
渋々、13日の午後、会社に詫びて休みをもらい、母を優先することにしました。最後に透析を受けた日から4日が経っています。透析をしないと人間は何日で死んでしまうのか、病院に聞いても答えてもらえませんでした。誰にもわからなかったのかな。
自衛隊で透析をやってもらえるらしいと聞き、苦竹の自衛隊へ向かう。
しかしそこではやっておらず、仙台社会保険病院へ行くよう指示される。
「仙台 震災 透析」で検索すると当時の記録が出てきますが、唯一機能していたこの病院には透析を受けられない宮城県内全域の透析患者さんが押し寄せ、ごった返していました。薄暗い中、非常灯と床に点々と置かれた懐中電灯、床に座る人、廊下に寝る人…。まるで現実とは思えないような、映画の中にいるような不安な気持ちでいました。
夜になり、ようやく母の番が来た時はとても安堵しました。その時現場にいた医療関係者の方々には今でも本当に感謝しています。
本来4時間の透析のところを、非常時のため2時間しかできず、体調の悪そうな母。
2時間でどのくらい体は持つのだろうか。
夫はそんな私たちを夫の実家のある新潟へ避難させ、新潟の病院で透析を受けられるよう手配してくれました。
翌14日。母は夜にもう一度透析を受けられることになりました。
翌15日。ガソリンが半分以下でしたが、一か八か、新潟へ向かいます。(後日、ネットで知ったことですが、透析患者はガソリンを優先的に入れてもらえるなんて当時は全く知りませんでした。)
途中で尽きたら、ヒッチハイクして母だけ誰かに送ってもらおうと話していました。
高速道路は封鎖されているので、山形経由の下道。アスファルトが盛り上がり、ひび割れ、土石が散乱している所をよけながら、ブルーシートの景色を横目に新潟へ向かいます。途中のスタンドも機能しておらず、ついにガソリンが尽きました。が、義父が携行缶で持ってきてくれ(小国だったかな)、ヒッチハイクをすることなく3人で無事新潟入り。
電気がついていました。コンビニや商店が開いていて、車がたくさん走っています。
歩く人々が笑っていました。・・・本当に同じ日本なのか、と愕然としました。
着の身、着のまま出てきたので、化粧もせず、お風呂もまともに入っていない。そんな姿で義実家にお世話になりに伺った時、急に恥ずかしくなったのを覚えています。
母は新潟市東区の臨港病院で透析を受け入れてもらえることになりました。
後から一足先に自力で避難したのは正解でしたねと病院の人に言われました。近隣の県に受け入れ要請が出たが皆いっぱいでもっと遠くの県まで移動した人も多かったそうです。
新潟へ来て初めて、津波の映像を見ました。ショックでした。土地勘があるだけに、えーあそこまで来たんだという思いと、気仙沼や石巻の親戚たちは皆大丈夫だろうか。
向こうでは皆が冷たい灰色の世界で必死に生きている中、自分たちだけ逃げてきて、温かい食べ物を食べ、お風呂に入れることにとても罪悪感がありました。
数日後、新潟駅で父と再会し、人目も気にせず皆で抱き合って涙しました。
あれから10年。
数年で仙台へ戻れると思っていた私たちも、ファミリーも皆、新潟にお世話になっています。
家族も増えました。
初めての土地で助け合い、色々な人に支えられ、お陰様で今は笑顔で楽しく暮らせています。被災者、避難者、大変だったねと同情されるのが嫌で、ほとんど詳しい話は誰にもしてこなかったけれど、10年経った今は、忘れないうちに記録しておくのも必要かな、子供たちにも伝えないとな、という気持ちになりました。経験者だからわかる事を誰かに残していかないといけない。
とりあえず、私自身が今していることは、
・ガソリンが半分まで減ったら入れる。
・水・食料・消耗品のローリングストック。
・非常用トイレ、多めに。
・懐中電灯は大小合わせて10個以上あります。家族の人数以上にあると良い。夜、トイレに行くときやちょっと一人が出かけるなど、置き型と持ち運び用。車にも1つ常備。
・自転車1台。新潟は車生活なので普段は必要ないが、震災時とても役に立ったので1台買ってあります。
・ポータブル充電器(携帯に数回分、充電できる容量)
伝えたい事、教訓として
・透析患者は、災害『弱者』であるという事。電気、水が使えないと命にかかわる。
・透析患者には、ガソリンのパスカードがもらえ、優先的にガソリンを入れてもらえたらしい。それは日ごろから周知して頂きたかった。当時は全く知りませんでした。
・自分の車で、ガソリンがどのくらいあればどこまで移動できるのか、把握する事。
7年前の自分のブログを見ると、我ながらとても暗い。
けど今はこの時よりも新潟への愛着も増え、友人、知り合いも増え、思い出も増えてきました。10年も住んだら『避難』じゃなくて『移住』じゃないかと言われそうだが、あえて、『避難』と思っています。心は仙台っ子。
新しい思い出は、これからまた増えるだろう。
こうなったら別に新潟にこだわらなくても、子育てが終わったらどこか好きな所に移住しようかな。その時は単身赴任?なんて冗談半分で笑っています。
津波で亡くなったあの子の分も、精いっぱい生きると約束した。
前を向いて歩かないと。